映画時事評

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』レビュー:再挑戦は楽しいが、兄弟の時間は短い

LUX · 2026年11月05日

「ゲームには忠実だが、映画としての物語は弱い」という批判は、問題の範囲を広く捉えすぎている。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』には、弟を救おうとする兄の物語が確かにある。問題は、兄弟が一緒に過ごす時間をほとんど与えてくれないことだ。

ブルックリンで配管業を始めたマリオとルイージは、見知らぬ世界へ入り込んだところで離れ離れになる。捕らわれた弟を探すマリオの気持ちは、ゲームを一度も遊んだことのない観客にもすぐ伝わる。ところが映画は、2人を引き離したまま、訓練や対決、追跡へと忙しく走り続ける。

その疾走感はかなり楽しい。特に、マリオが障害物を前に何度も失敗する訓練では、私も次の挑戦を待ち望んだ。見慣れたアイテムを見つける楽しさより、器用ではなくても諦めない人を応援したいという気持ちが先に生まれる。兄弟を描く映画なのに、兄弟で一緒に働く時間があまりにも短いことが、だからこそ余計に惜しく感じられる。

私は、この映画が失敗するマリオを応援させてくれる点を好ましく思う。ただ、兄弟愛から始まる冒険にしては、兄弟をあまりにも長く引き離している。

物語がないのではなく、兄弟が会う時間がない

出来事が足りない映画ではない。兄弟の愛情を出発点にしながら、2人が一緒に行動する時間を十分に与えなかった映画なのだ。

マリオにとってルイージは、使命を受けて探しに行く見知らぬ人物ではない。ブルックリンで配管業を始めた弟だ。奇妙なパイプを通り抜け、離れ離れになる前から、2人には一緒に築こうとしていた暮らしがある。

だから、救出される人物をピーチ姫からルイージへと変えた判断はいい。なぜ危険を冒すのか、長い説明は必要ない。マリオには、戻ってもう一度一緒に働きたい相手が向こう側にいる。

私は、この単純な理由が冒険をしっかり支えていると思う。王国を救うことは大きな使命だが、弟を連れ戻すことは身近な目的だ。ゲームのルールを知らなくても、兄が急がなければならない理由から理解できる。

ただし、救わなければならない理由を理解することと、2人が一緒にいる姿を好きになることは別だ。前者は出発点だけで伝わる。後者には、共に怯え、助け合い、相手の反応を受け止める時間が必要になる。

映画はその時間を十分には与えない。マリオはキノコ王国の指導者ピーチから学び、ドンキーコングと対決しながら先へ進む。クッパに捕らえられたルイージは、兄の冒険に直接加わることができない。

その結果、マリオがどんな人物なのかは行動を通じて何度も示される。一方、兄弟がどんな組み合わせなのかについては、離れ離れになる前に見せられた関係に長く頼ることになる。兄を心配する弟と、弟を探す兄はいる。しかし、互いの存在によって変化する瞬間は少ない。

2人を引き離した選択そのものを責めているわけではない。救出の物語は、誰かを失うところから始まるものだ。問題は、離れている時間が長くなるほど、再会を願う気持ちも同じだけ育っていなければならないことにある。

新しい仲間や新たな障害が増えていく速さに比べ、その気持ちを積み重ねる時間は短い。マリオの旅は動き続けるのに、兄弟の関係は次の再会を待ったままだ。私は救出の成功よりも、2人が再び一緒に動き出す瞬間を待つようになった。

では、弟なしで走り続ける間も、この不器用な兄を最後まで応援したくさせる力はどこから生まれるのだろうか。

何度も転ぶマリオが、いちばん頼もしい

訓練シーンがいいのは、ゲームにおける再挑戦をマリオの性格へと変えているからだ。障害物の前で何度も失敗する姿を見ているだけで、私はこの配管工を応援したくなった。

ピーチが教える見知らぬ世界のルールは、マリオにとってまだ難しい。体は思うように動かず、挑戦は何度も失敗に終わる。それでも彼は、また始める。

ここで重要なのは、失敗を短い間隔で繰り返す構成だ。映画はまずマリオが不器用であることを示し、その次に、諦めないことを示す。上手だから頼もしいのではない。下手でも逃げ出さないから頼もしいのだ。

ゲームなら、自分が失敗したから自分で再挑戦する。映画では、マリオが失敗した後に何をするのかを見守ることになる。観客にコントローラーを握らせなくても、次の試みを待たせる仕掛けになっている。

私は、華麗に通過する瞬間より、失敗した後にもう一度立ち向かう姿に心を動かされた。あれだけ失敗すれば諦めてもおかしくないのに、それでもまた挑む人には、不思議と情が移る。弟を救うという言葉にも、それだけの重みが加わる。

この場面は、訓練と救出を別々のものにしない。目の前の障害を一つ越えられなくても退かない人だからこそ、弟を探すことも簡単には諦めないだろうと信じられる。兄弟の不在を完全に埋めることはできないが、兄についていく理由は確かに生み出している。

レインボーロードでも、見慣れたゲーム要素が役割を果たす。カートが走る虹色の空中道路で、アイテムと追跡劇が一つの出来事として結びつく。知っているものが出てきたと喜ぶ間もなく、次の危険が迫る。

カートは展示されているだけのアイテムではなく、今すぐ動かさなければならない乗り物だ。アイテムも名前を当てるクイズではなく、追跡のさなかに使う道具になっている。何を見つけたかより、今どうやって逃げ切るかが優先される。

運転免許の練習から道路での追跡まで、初心者に対する教習内容があまりにも充実している。

訓練では踏ん張る人物を応援し、追跡ではその人物が危険を乗り越えることを願うようになる。映画がゲームに似ているから楽しいだけではない。見慣れた動きに、マリオが苦労する理由を与えているから楽しいのだ。

転ぶ体が笑いを誘う一方で、もう一度やってみようとする声が、彼を応援したくさせる。

声が救うのは英雄よりも初心者

クリス・プラットとアニャ・テイラー=ジョイの声は、英雄の格好よさよりも、学んでいる者の努力を引き立てる。手際よく導くピーチと、不器用ながらついていくマリオ。その差が、応援したくなる場所をつくっている。

マリオを演じるプラットの声は、ゲームに登場する短い掛け声よりも日常の会話に近い。繰り返し訓練する場面でも、その声はマリオを偉大な運命の主人公として押し出さない。体が思いどおりに動かなくても、もう一度挑もうとする配管工のそばにとどまっている。

私はこの選択がいいと思う。短い掛け声で懐かしさを感じさせる声と、冒険の間ずっと聞いていたい声は違う。プラットはおなじみの声を再現するよりも、マリオの焦りや粘り強さを受け止める余地をつくっている。

だから、訓練での失敗が単なる体を張ったギャグで終わらない。転ぶ姿は滑稽でも、再挑戦する人物まで笑いものにはしない。弟を救いたいという気持ちを大げさに叫ばなくても、その努力を信じられるようにしている。

ピーチを演じるテイラー=ジョイは反対に、見知らぬ世界をすでによく知る人物の声を出している。障害物を通過する実演では、ピーチの手慣れた身のこなしと、揺るぎない指示がかみ合う。マリオが迷っている間も、ピーチは何をすべきか分かっている。

その差はマリオを貶めない。ピーチが簡単にこなすことを彼が苦労して学ぶからこそ、失敗後の再挑戦がより鮮明になる。2人の関係を恋愛ではなく、初心者と案内役として設定したことも、この効果を後押ししている。

もしピーチの声までマリオと一緒に戸惑っていたら、訓練の基準もぼやけていただろう。テイラー=ジョイは案内役の立場を守り、プラットが不器用でも構わない空間をつくる。一人が手慣れているからこそ、もう一人の努力が見えてくる。

ルイージを演じるチャーリー・デイは、見知らぬ世界を恐れる不安を伝えている。ただ、兄と離れているため、一緒に呼吸を合わせる機会は少ない。

征服者クッパを演じるジャック・ブラックは、「Peaches」で脅威に満ちた声を過剰な求愛へと転じ、ピーチを手に入れようとする欲望を笑いへ変える。

王国を脅かしていた声が、ピアノの前では求愛に残業する。

歌を聴いて、私も吹き出してしまった。クッパの巨大な体とひたむきな求愛がぶつかり合い、ゲームで知っていた悪役ではなく、今目の前にいる滑稽な人物として迫ってくる。

声や歌まで使って、見慣れた人物に新しい面白さを加えたのなら、ゲーム要素を詰め込みすぎたという批判はどこまで当てはまるのだろうか。

ファンを楽しませたからといって、広告になるわけではない

私はこの映画を「長い広告」と見る批判には同意しない。ただ、見慣れた世界を見つける喜びが、兄弟の不在まで埋めてくれるわけではない。

批評家のジェームズ・ベラディネッリは、昔のゲームの楽しさを思い起こさせるこの映画を、「長い広告」に近いと批判した。ファンが喜ぶアイテムを数多く見せているという指摘は正しい。しかし、何を見せるかだけで広告と物語を分けることはできない。

私が基準にするのは、そのアイテムや動きが登場人物に何をさせているかだ。見覚えのあるものを見つけた瞬間だけ楽しく、それで終わっていたなら、私もその批判に同意しただろう。ここでは、ゲームでおなじみの場面がマリオを応援する理由もつくっている。

訓練を思い出してほしい。障害物を越える動きはゲームから借りているが、何度失敗しても戻ってくる選択はマリオの性格を表す。私は障害物の再現ではなく、その前にもう一度立つ人物を見ることになった。

レインボーロードの追跡も同じだ。カートやアイテムは、観客に気づかせるために立ち止まってはいない。危険を避け、前へ進まなければならない状況の中で、それぞれの役割を果たしている。

この2つの場面を商品の羅列として片づければ、映画が実際に成し遂げたことを見落としてしまう。見慣れているからうれしいものと、場面の中で役に立つものは同時に成立する。ファンを喜ばせたからといって、その有用性まで否定する必要はない。

1993年の実写版『スーパーマリオ』は、明るいゲームの世界を、暗い恐竜と都市の世界へ大きく変えた。2023年版は反対に、色彩やキャラクター、ゲームの動きを見慣れた姿のまま映像へ移している。私は今回の選択を歓迎したい。

しかし、原作を大きく変えたからといって登場人物に深みが生まれるわけではない。忠実に移したからといって、兄弟の関係が自然に強固になるわけでもない。どちらにしても、最終的にはその世界の中で人物を応援したくさせなければならない。

だから私の不満は、キノコ王国が見慣れすぎていることではない。その王国をさまよう兄と弟が、互いに反応し合う機会が少ないことにある。マリオの粘り強さは見えるが、兄弟が一緒に踏ん張る姿が足りない。

見慣れた背景を減らしたからといって、この問題がすぐ解決するわけではない。必要なのは新しい装飾ではなく、2人が一緒に怯え、動く時間だ。ゲームの場面がすでに役割を果たしたのなら、次に問うべきなのは兄弟に割り当てられた時間である。

弟を救う理由は十分だが、一緒にいる時間が足りない

マリオの粘り強さは行動によって積み重なる一方、ルイージの勇気は同じようには積み上がらない。そのため、兄を応援していた気持ちが兄弟2人へ広がっていくには力が足りない。

マリオは失敗するたびに、自分を示す機会を得る。訓練を再開し、対決に臨み、危険な道へ入っていく。弟を探す気持ちは言葉だけにとどまらず、選択へとつながっている。

一方のルイージは、物語の中盤の大半を捕虜として過ごす。怯える姿は、彼がどれほど危険な状況に置かれているかを伝える。しかし、危険にさらされている姿を見ることと、恐怖を乗り越える過程を見ることは違う。

私は、ルイージが最初から勇敢であるべきだとは思わない。臆病だからこそ、小さな決意も大きく感じられる。ただ、その決意を見守る時間が必要なのだ。

兄に頼っていた弟が変わるには、兄なしで選択する瞬間も十分に必要になる。怖くても何かをやってみる過程があってこそ、次の行動を待ち望める。映画はその期待を育てる機会をあまり与えていない。

これは、ルイージの変化に説得力がないという批判とは違う。愛する兄のために勇気を出す気持ちは理解できる。私が惜しいと思うのは、その気持ちを理解できたぶんだけ、長く応援することができなかった点だ。

兄弟が離れていても、関係を積み重ねる方法はある。互いから学んだ姿勢が、それぞれの選択に表れればいい。しかしここでは、マリオの前進に比べて、ルイージが自分で動く余地が狭い。

そのため、2人の再会を待つ理由も少しずつ変わっていく。最初は弟が無事であることを願い、やがて2人が一緒にいる場面を見たくなる。救出の必要性は十分に分かったから、今度は関係の次の姿を見せてほしい、という気持ちになる。

私が見るところ、この圧縮には短い上映時間も影響している。92分の中に訓練、対決、追跡まで詰め込もうとしたため、兄弟が一緒に過ごす時間が押し出されたのだろう。テンポの速い冒険を選んだ代償が、最も身近な2人に及んでいる。

短いからこそ軽快だという長所は明らかだ。だからといって、尺の短さが惜しさを帳消しにする免罪符にはならない。兄弟愛を冒険の理由に選んだのなら、その関係にも時間を使うべきだ。

私は次の障害物を待っていたが、兄弟の次の会話にはもっと飢えていた。

応援したくなる兄はつくったが、一緒に走る時間を惜しんだ

私は、この映画がゲームを眺めるだけで終わっているという評価には同意しない。訓練で何度も失敗するマリオは、知っているキャラクターを超え、応援したくなる人物になる。レインボーロードもまた、見慣れたアイテムを実際の危険と追跡へ変えている。

高く評価したいのは、まさにその手腕だ。ゲームでは自分が再挑戦するが、映画ではマリオがもう一度立ち向かうのを待つことになる。自分で操作しなくても失敗の後が気になるようにしたのだから、ゲームを映画へ移した意味は十分にある。

減点した理由は、兄弟愛を前面に出しながら、兄弟が一緒に動く時間を惜しんだからだ。兄の粘り強さは一つずつ積み重なるのに、弟の勇気は急いで追いついてくる。救出の理由は明確だが、関係が育つ過程は短い。

マリオの動きが訓練や追跡へ変わっていく面白さを求めるなら、おすすめできる。短く軽快なファミリーアドベンチャーを探している観客にとっても、92分は惜しくない。ゲームを知らなくても、弟を探す兄の気持ちから追っていけばいい。

反対に、兄弟が一緒にぶつかり合いながら変わっていく物語を期待するなら物足りない。人物の変化がじっくり積み重なる映画を求めるなら、私のおすすめ度は下がる。2人が一緒にいる時間を待つほど、展開の速さが恨めしくなる。

見るときは、知っているアイテムの数よりも、失敗したマリオが次にどう動くかに注目してほしい。ピーチも救出される人物ではなく、見知らぬ世界を教える案内役として受け止めるといい。そうすれば、2人の実力差がマリオを応援する理由へと変わる。

続けて見る作品としては、1993年の実写版『スーパーマリオ』を挙げたい。どちらがゲームに似ているかよりも、どちらで登場人物をより応援したくなるかを比べるといい。原作を変えることも守ることも、結局はその問いから逃れられない。

私の評価は5点満点で3.5点。失敗する姿を応援したくなる冒険は楽しかった。見終わってみると、キノコ王国よりも兄弟の時間のほうが惜しく感じられた。その中で、兄弟が一緒に走る姿をもっと見たかった。

★★★☆☆ (3.5/5) — 再挑戦には声援を送りたくなるが、兄弟の時間は惜しまれた。

よくある質問(FAQ)

マリオのゲームを知らなくても楽しめますか?

弟を救おうとする兄の冒険なので、基本的な物語は簡単に追える。ゲームを知っていれば、背景やアイテムを見つける楽しさが加わる。初めて見るなら、名前を覚えるよりも、マリオが失敗した後にどう行動するかに注目するといい。

特定のマリオゲームをそのまま映画化した作品ですか?

特定のゲーム1本をそのまま移した作品ではない。任天堂のマリオシリーズの世界観や動きを組み合わせ、配管工兄弟の始まりの物語として描いている。障害物の訓練やカートでの追跡が、その違いをよく示している。

原作の「お姫様を救う物語」とは何が違いますか?

今回はピーチではなく、ルイージが救出される側になる。ピーチはキノコ王国の指導者であり、マリオに世界のルールを教える案内役だ。この変更によってマリオが危険を冒す理由は身近になったが、兄弟が一緒に行動する時間は短くなった。

1993年の実写版を先に見るべきですか?

先に見る必要はない。2023年版は、普通の配管工兄弟が見知らぬ世界へ入っていくところから始まる。2作品を比べたいなら、今回の映画を見た後に実写版を続けて見るのがおすすめだ。

子どもと一緒に見るファミリー映画としておすすめですか?

短く軽快な冒険を求める家族にはおすすめできる。上映時間は92分で、訓練、対決、追跡がテンポよく続く。ただし、兄弟の関係がゆっくり深まる物語よりも、アクションの楽しさに重きを置いている。

キム・ジフン 記者
ALJIstory 編集長

見えない裏側の真実に迫る深層批評

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