攻殻機動隊(1995)、不親切だからこそ偉大な映画

攻殻機動隊をめぐる評価は、おおむね二つに分かれる。
一方はこの映画をSFアニメーションの頂点と称賛し、もう一方は「台詞が多すぎて退屈だ」と首をかしげる。
この分岐点で、どちらの意見も曖昧に紹介して終わるレビューほど無責任なものはないと、私は思う。
だから、はっきり言っておきたい。この映画が不親切だという指摘は正しい。
しかし、その不親切さこそが、この作品を30年近く生き残らせてきた最大の武器なのだ。
娯楽として気軽に消費しようとする人には期待外れかもしれない。だが、思考を求める映画として受け止めた瞬間、この作品はまったく違って見えてくる。

あらすじより先に、タイトルが突きつける問い
2029年。サイボーグ化が日常となった世界で、公安9課に所属する草薙素子少佐は、「人形使い」と呼ばれる正体不明のハッカーを追う。
あらすじだけを見れば、典型的なサイバーパンク捜査劇に聞こえる。だが、実際に映画を動かしているのは事件の展開ではなく、タイトルそのものだ。「ゴースト・イン・ザ・シェル」、つまり殻の中の魂。全身を機械に置き換えた存在に、「私」と呼べる何かが残っているのだとしたら、それはいったいどこにあるのか。
この一つの問いが、映画の全編を通して刑事ドラマの外皮を突き破り、何度も顔をのぞかせる。
押井守監督がこの映画で描こうとしたのは、事件の全貌ではない。技術的に進歩した世界で、自己のアイデンティティーがどのように揺らぐのかという、はるかに根源的な問いだった。私は、その選択は正しかったと思う。

「退屈だ」という批判には同意できない
この映画に対する最もよくある不満は、アクションよりも静的な独白や哲学的な台詞が長すぎるというものだ。
実際、草薙が船に乗って都市を横切りながら自らの存在について思いを巡らせる場面は、数分間ほとんど台詞のないまま進む。ここで多くの観客が退屈を覚えることも理解できる。
しかし、私はこうした場面を編集の失敗だとは思わない。むしろ、意図的に設けられた間なのだ。アクションで絶えずドーパミンを与える映画ではなく、観客を強制的に立ち止まらせ、「私は何者なのか」という問いをともに反芻させるための仕掛けである。
テンポの速い展開に慣れた目には、引き延ばされているように感じられるかもしれない。だが、あの静かな時間がなければ、この映画が投げかける哲学的な重みは半分も伝わらなかったはずだ。
不親切さを欠点として切り捨てる評価には同意できない。それは、この映画が最初から目指していたものを成立させないよう求めるのと同じだからだ。

『マトリックス』が持ち去ったのは、あくまでスタイルだった
『攻殻機動隊』と『マトリックス』を並べて論じることは、もはや珍しくない。
デジタルレインのように流れ落ちるオープニングクレジット、スローモーションを駆使したアクション、熱光学迷彩を思わせる隠密演出まで、ウォシャウスキー姉妹がこの作品を参考にしたことは、すでによく知られている。
だが、この比較で誰もが見落としている点があると、私は思う。
『マトリックス』が持ち去ったのは、どこまでいってもスタイルにすぎないということだ。
『マトリックス』は、「何が現実なのか」という問いを、最終的には選ばれし者とシステムの善悪対立として描き、アクション大作へと完成させた。
一方、『攻殻機動隊』は同じ問いを明快な答えのないまま最後まで開かれた状態にしておく。
草薙が人形使いとの融合を選んだことが救済なのか、それとも消滅なのか。映画は最後まで答えを示さない。
この開かれた結末の居心地の悪さを引き受けたことと、その不快感を取り除き、明確な勝利へと収束させたこと。私は、この違いこそが二つの映画の完成度を分ける本当の基準だと思う。
『マトリックス』のほうが多くの人に愛されたのは事実だ。しかし、より誠実な問いを投げかけたのは、明らかに『攻殻機動隊』である。

原作漫画とはまったく異なる映画。それでも正しい選択だった
士郎正宗の原作漫画を先に読んでいた人ほど、劇場版を見て戸惑うことが多い。
原作は、アクションとテクノスリラーにコメディーの要素が加わった、はるかに軽快でユーモラスな作品に近い。
押井守は原作からユーモアや雑多なエピソードをほぼすべてそぎ落とし、人形使い事件という骨格だけを残して、極めて重く瞑想的な映画へと再構成した。
原作ファンからすれば、「これがあの漫画なのか」と思うほどのトーンの変化だ。だが、私はこれを原作の改変による損失だとは思わない。
むしろ、原作の随所に散らばっていた哲学的な断片を押井が選び出し、一つの問いへと凝縮した再創造に近い。原作をそのまま映像化していたら、私たちがいま記憶している『攻殻機動隊』は存在しなかっただろう。
軽快でユーモラスな原作のトーンを守ることと、その中にあった最も重い問いを最後まで突き詰めること。その二つのうち、押井は後者を選んだ。そして、その選択がこの作品をSF史に刻み込んだ。

2017年のハリウッド版が本当に失敗した理由
2017年に公開されたスカーレット・ヨハンソン主演の実写版は、公開前からホワイトウォッシングをめぐる議論に巻き込まれていた。
日本人キャラクターである草薙素子役に白人俳優を起用したことを理由に、10万人以上が署名する再キャスティング請願まで登場した。
ただし、公平を期すなら、原作漫画の出版社と1995年版の押井守監督本人は、むしろこのキャスティングを支持していた点にも触れておくべきだ。
公開後、アメリカでの初週末興行収入は1,900万ドルで3位にとどまり、ロッテントマトのスコアも公開前の71%から公開週には42%まで下落した。
スタジオ側は、興行不振の理由として、原作の難解な概念、北米の観客が原作に不慣れだったこと、ホワイトウォッシング論争、競合作品の存在を挙げた。だが、この失敗の本質は、キャスティング問題だけではないと私は思う。
本当の問題は、ハリウッド版が原作の難解さを取り除き、敷居を下げようと新たなキャラクターや補強した物語を加える過程で、1995年版を偉大な作品にした不親切さと、開かれた結末がもたらす居心地の悪さまで消し去ってしまったことにある。
ホワイトウォッシング論争がなかったとしても、この映画は興行面で苦戦した可能性が高い。
原作が持つ鋭い問いを丸め、娯楽作品へと変えようとする企画そのものが、そもそも『攻殻機動隊』という作品のアイデンティティーと衝突していたからだ。

総評
『攻殻機動隊』(1995)は、親切な映画ではない。
説明は最小限にとどめ、あとは観客自身で補うよう求める。そして、明快な答えの代わりに問いだけを残して終わる。
この作り方が、ある人にとっては退屈の理由になり、別の人にとっては30年たっても繰り返し見返したくなる理由になる。
私は後者だ。『マトリックス』がこの映画のスタイルを世界的に流行させたのだとすれば、『攻殻機動隊』は、そのスタイルの下に横たわる本当の問いを、いまなお最も誠実に投げかける原典として残っている。
星をつけるなら、4.5点を与えたい。減点要素は一つだけ。この映画が求める集中力を準備せずに見れば、本当に退屈に感じられる可能性があることだ。

よくある質問(FAQ)
『攻殻機動隊』は実話をもとにした映画ですか?
いいえ。士郎正宗のSF漫画を原作としており、実際の事件や人物をもとにした作品ではない。2029年を舞台にした架空のサイバーパンク世界を描いている。
『マトリックス』は『攻殻機動隊』を盗作したのですか?
盗作というより、公式に認められたオマージュに近い。ウォシャウスキー姉妹が『マトリックス』を構想する際、1995年版の『攻殻機動隊』を参考資料として挙げていたことは広く知られており、デジタルレインのクレジットやスローモーションのアクションなど、映像的なスタイルにも直接的な影響が確認できる。ただし、物語の構造と結末の描き方は、まったく異なる道を選んでいる。
原作漫画と1995年の劇場版は、どのくらい違いますか?
作品のトーンそのものが異なる。原作漫画はアクションとテクノスリラーにユーモアを織り交ぜた軽快な作品である一方、押井守監督の劇場版はユーモアをほぼ取り除き、哲学的で重厚な雰囲気に再構成している。原作を先に読んだ人ほど、劇場版とのトーンの違いに驚くかもしれない。
2017年のハリウッド実写版は、原作とどのような関係にありますか?
1995年のアニメーションと原作漫画をもとにしたリメイクだ。スカーレット・ヨハンソンが主演を務め、新たなキャラクターや補強された物語が加えられたが、ホワイトウォッシングをめぐるキャスティング論争と興行不振により、原作ほどの評価は得られなかった。

2017年版のホワイトウォッシング論争とは、具体的にどのようなものですか?
日本人キャラクターである草薙素子役に白人俳優のスカーレット・ヨハンソンを起用したことで、アジア系俳優の排除をめぐる議論が起こり、10万人以上が署名する再キャスティング請願が登場した。ただし、原作漫画の出版社と1995年版の監督は、このキャスティングを支持する立場を示している。
続編や後続シリーズはありますか?
2004年に続編『イノセンス』が制作され、2008年には1995年版をリマスターした『攻殻機動隊2.0』が公開された。このほかにも、テレビシリーズ『SAC』や、前日譚的な作品である『紅殻のパンドラ』など、さまざまな派生作品が存在する。
アクション映画として期待して見ても大丈夫ですか?
アクションシーンそのものの完成度は高いが、この映画の重心はアクションではなく、アイデンティティーをめぐる哲学的な考察にある。テンポの速い展開や派手なアクションを期待して見ると、静かな場面で退屈を覚えるかもしれない。思考を求める映画だということを念頭に置いて見ることをおすすめする。