『ライフ・イズ・ビューティフル』レビュー――笑いで築いた盾、それでも私はこの映画を半分しか信じない

ロベルト・ベニーニ監督の『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997年)は、アカデミー主演男優賞、カンヌ国際映画祭グランプリ、Rotten Tomatoes 81%と、あらゆる評価を手にした作品だ。その一方で、メル・ブルックスのようなコメディーの巨匠からは、「収容所で笑いを見つけようとした狂った映画だ」と批判も受けた。
これほど評価が極端に分かれる映画は、そう多くない。
先に結論を言えば、私はこの映画の半分を傑作だと思い、残り半分には誠実さを欠く部分があると感じている。なぜその二つの思いが同時に生まれるのか、考えてみたい。

第1部と第2部は、実は別の映画だ
『ライフ・イズ・ビューティフル』は、構成上きれいに二つに分かれている。
第1部は1939年のイタリア・アレッツォを舞台に、書店を営むグイドが、田舎の学校教師ドーラと出会い、ドタバタの求愛の末に結婚へこぎつけるスラップスティックなロマンチックコメディーだ。
第2部は1944年。ユダヤ人であるグイドと息子ジョズエが収容所へ連行された後、グイドが「これは得点を競い、優勝すれば戦車がもらえるゲームだ」と息子に信じ込ませ、恐怖から守ろうとする物語である。
私は、この二つのパートを同じ重さで評価することはできないと思っている。
第1部は、ベニーニ独特の身体を張ったギャグと絶妙なタイミングが完璧に機能する、純粋によくできたコメディーだ。ここに異論はない。
問題は第2部である。ここから映画は観客に「これを信じてほしい」と求め始める。しかし私は、その要求のかなりの部分を受け入れにくかった。

なぜこの映画は作られたのか――父親のユーモア
ベニーニがなぜこのような映画を作ったのかは、彼の個人史を知れば理解できる。
父親のルイジ・ベニーニは、実際にナチスの強制労働収容所で2年間を過ごし、その経験を子どもたちに語る際には、いつもユーモアを交えていたという。
ベニーニはこれを、「笑いと涙は魂の同じ場所から生まれる」という言葉で説明している。さらに、アウシュヴィッツ生存者ルビーノ・ロメオ・サルモーニの回想録『結局、私はヒトラーに勝った』から物語の骨格を得て、制作期間を通じてミラノ現代ユダヤ学資料センターの助言も受けた。
つまりこの映画は、ベニーニがホロコーストを題材に軽薄な冗談を飛ばしたものではない。父親が生き延びるために用いた方法を、スクリーンに移そうとした真摯な試みだったという点は、明確に押さえておくべきだ。

本当の論点――問題は「美化」よりも「安易さ」だ
この映画をめぐる議論は、たいてい「ホロコーストをコメディーの題材にしてよいのか」という問いに集約される。
ノーベル文学賞受賞者のイムレ・ケルテースは、この映画をコメディーだと受け取ること自体が「本質を見失っている」として、これは悲劇なのだと反論した。私はこの反論に同意する。
最後まで観れば、これは笑える映画ではなく、父親が死を目前にしながらも、息子に恐怖を受け渡すまいとする痛切な物語だ。「ホロコーストで笑いを取ろうとした」という批判は、この映画を正しく観ていないのではないかと思う。
ただし、私が本当に妥当だと思う批判は別のところにある。学者イローナ・クラインが指摘した点だ――この映画は結局、「愛や家族の絆、想像力の力があれば耐え抜ける」というメッセージとして受け取れる。しかし実際の収容所では、愛や家族の絆、想像力を最も切実に持っていた人々の大半がガス室で命を奪われた。
こここそが、この映画の本当の弱点だと私は思う。
道徳的に「一線を越えた」という問題ではない。物語があまりにも都合のよい結末へ向かって進んでしまうことが問題なのだ。
子どもが最後まで見つからず、米軍の戦車がまさにそのタイミングで現れて少年を救う展開は、ドラマとしては完璧だ。しかしその一方で、「愛があれば最後には報われる」という錯覚を生み出してしまう。
実際の歴史では、その愛が報われなかったケースのほうが圧倒的に多い。この映画が、そうした圧倒的多数の現実を画面の外へ完全に追いやってしまったこと。私はそこに、この作品が最も誠実さを欠く部分があると考えている。

それでもこの映画を低く評価できない理由
それでも私は、この映画を低く評価してはいない。
ベニーニ自身も、「この映画はナチスやファシストについての作品ではなく、人間の精神についての映画だ。ホロコーストの『真実』を伝えられるのはドキュメンタリーだけだ」と、両者の一線を引いている。
私はこの姿勢を誠実だと思う。この映画は、歴史を忠実に再現した作品だと自称したことはない。
そもそも劇中の細部には、実際の収容所の運営方法とは異なる部分がかなり多く、ベニーニはそれを意図的に設計した。これはドキュメンタリーではなく、寓話なのだ。
そして寓話として捉えるなら、「親は子どもに恐怖をどのように翻訳して伝えるのか」という問いには、今なお力がある。

いまを生きる私たちに残すもの
この映画を今なお反芻する価値がある理由は、ホロコーストという題材そのものよりも、「親は子どもにとって大きすぎる現実を、どう伝えるのか」という問いにあると私は思う。
戦争、離婚、破産、病気――子どもが理解するには重すぎる現実を前に、親にできる選択は二つしかない。ありのままをすべて見せるか、子どもが受け止められる形に翻訳して伝えるか。グイドは後者を選んだ。私は、その選択自体を責める理由はないと思う。
ただ、ここで現実的な一言を付け加えておきたい。
物語や心構えだけで子どもを守れるのは、現実には状況が子どもの味方をしてくれた場合に限られる。グイドの愛は美しかった。しかし彼を救ったのは愛ではなく、たまたまそのタイミングで現れた米軍の戦車だった。
親の姿勢と愛情は、子どもがその時間を耐え抜くために不可欠だ。しかし、それだけですべての危機を乗り越えられると思い込んではいけない――この映画を観て、私が本当に残したいメッセージはそこにある。愛は耐え抜く力を与えてくれるが、外から訪れる救いの代わりにはならない。

結論――星3.5/5
演技、特にベニーニ自身が体を張って見せるコメディー演技と、後半の抑制された感情表現は、なぜアカデミーが賞を贈ったのか納得できるほど素晴らしい。第1部の完成度にも、ほとんど非の打ち所がない。
しかし第2部の感動は、「この程度の偶然と想像力があれば、どうにかなる」という都合のよい前提の上に築かれている部分が大きい。私は、その前提がこの映画の感動を半分ほど削いでいると思う。
傑作と呼ぶには、物語の面で自分自身にあまりにも寛容だ。かといって酷評するには、作りの確かさと込められた真摯さがあまりにもはっきりしている。だから私は、この映画に3.5点をつける――敬意は抱くが、全面的には同意できない作品だ。

よくある質問(FAQ)
Q1. 『ライフ・イズ・ビューティフル』は実話をもとにした映画ですか?
完全な実話ではない。アウシュヴィッツ生存者ルビーノ・ロメオ・サルモーニの回想録から物語上の着想を得たうえで、監督ロベルト・ベニーニの父親が、ナチスの強制労働収容所での体験を子どもたちにユーモアを交えて語っていたという個人史を組み合わせて作られた創作作品である。

Q2. この映画がホロコーストを美化しているという批判は妥当ですか?
「美化」という表現には同意しにくい。映画は最終的に、父親が命を落とす悲劇として終わるからだ。ただ、愛や想像力だけで危機を耐え抜けるような印象を与え、実際の大多数の犠牲者が置かれた現実をあまりにも楽観的に描いているという批判には、私も一理あると思う。
Q3. 子どもと一緒に観ても大丈夫な映画ですか?
前半はコメディーなので比較的観やすいが、後半は収容所が舞台となるため、死や別れの情感が強く描かれている。幼い子どもよりも、歴史的な背景をある程度理解できる年齢の子どもと一緒に観て、対話することを勧めたい。

Q4. ロベルト・ベニーニはなぜこの映画でアカデミー主演男優賞を受賞したのですか?
英語圏以外の俳優として初めてアカデミー主演男優賞を受賞した。コメディー演技と悲劇的な犠牲を、一人の人物の中で説得力をもって行き来する演技力が高く評価された。また、授賞式で座席を飛び越えながらステージへ駆け上がった受賞シーンも話題になった。
Q5. この映画と似たテイストの近年の作品はありますか?
タイカ・ワイティティ監督の『ジョジョ・ラビット』(2019年)がよく一緒に語られる。ナチス時代を背景にコメディーの要素を取り入れている点は似ているが、子どもの視点や風刺の方法は異なるため、両作品を見比べてみるのも興味深い。